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須田きょう中展

 水戸偕楽園にある好文亭の襖絵は、須田きょう中が最晩年に残した傑作のひとつですが、これを見た北原白秋は感動して次のような歌を詠んでいます。

梅の間よ今は眺めてしずかなり
一際にしろき梅の花見ゆ

 須田きょう中※は東京美術学校卒業後、杉山寧、山本岳人、高山辰雄、といった松岡映岡の門下生で作る瑠爽画社に参画して、それまでの日本画とは全く違った新しい現代感覚の日本画を目指しました。いまから七十年余も前の事ですが、いまもって新鮮な感覚です。師松岡映丘の没後は前田青邨の誘いもあって文展から院展に移りますが、それからの活躍が目覚ましく次々と傑作を生み出し大観賞や白寿賞を受賞していきます。長い院展の歴史の中でも四度にわたって大観賞を受賞した作家は他にはおりません。時代を先駆ける新しい感覚は日本画壇にも大きな影響を与えました。
 この度は、晩年の作品を中心に各年代の優品を集めて展示いたします。新春を迎えて心新たに須田きょう中※の来し方を御高覧いただきたく、ここにご案内いたします。(※「きょう」は機種依存文字のためひらがなで表記。)
店主 増賀 睦朗
須田きょう中 略年譜(堀宣雄 編 より抜粋)
1907年 0歳 1月21日、福島県岩瀬郡須賀川町大字須賀川字東一丁目三十七番地(現在の須賀川市東町)に須田善太郎・ヒデの三男として生まれる。本名善二。
1927年 15歳 私立石川中学(現・学法石川高校)を卒業する。
1933年 26歳 第14回帝展<秋>入選。美校指導教官である松岡映丘に正式に師事。石川町出身の浦野ぬいと婚姻届。長女初女誕生。
1934年 27歳 東京美術学校卒業。第15回帝展に<高原>入選。
1937年 30歳 杉山寧らが結成した映丘門下の若手作家による研究会・瑠爽画社に加わる。
1940年 33歳 紀元二千六百年奉祝展に<梢>入選。この入選が契機となり、前田青邨に師事する。
1944年 37歳 戦火を避けるため石川町高田桜下に疎開。以後1949年まで石川町に滞在。
1951年 44歳 11月、東京芸大教授となった、前田青邨のすすめで東京芸大美術学部講師となる。以後日展出品をやめ、院展へ出品する。
1956年 49歳 第41回院展に<枯山水石組>出品、日本美術院次賞(大観賞)受賞。
1957年 50歳 第42回院展に<念持仏>を無鑑査出品、日本美術院次賞(大観賞)受賞。
1958年 51歳 第43回院展に<深海曼陀羅>を無鑑査出品、佳作(白寿賞)受賞。
1959年 52歳 第44回院展に<篝火>出品、日本美術院賞(大観賞)受賞、東京芸大助教授となる。
1960年 53歳 第45回院展に<正倉院>出品、日本美術院賞(大観賞)受賞、同人推挙。
1962年 55歳 4月10日〜15日、初めての個展を開催(日本橋三越)。須賀川市立体育館の緞帳が完成。
1964年 57歳 7月10日、午前4時、膵臓癌から心不全を併発し自宅にて歿。

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